新近江名所図会
新近江名所圖會 第444回 水のほとりに引かれた守りの線―いまはなき、六条堤をたずねて―
守山市の南西部にあたる玉津地域は、野洲川下流の低地に広がる田園地帯で、今は穏やかな風景が続いています。かつての野洲川は北流と南流に分かれ、玉津はその旧南流に近い場所として、川の恵みと脅威の両方を受けてきました。そうした土地に築かれたのが六条堤です(写真1)。この堤は慶長年間に、同地域に実在したといわれる矢島松斎と伊賀坊了誓という二人の人物が、野洲川の氾濫から村や田畑を守るために築いたとされます。その規模は、高さ約1.5m、長さ約5kmにおよぶ長い堤で、低地に広がる暮らしを支える江戸時代の防御線でした。

野洲川は、この地域に豊かな実りをもたらした川でもありました。上流から運ばれた土砂は肥えた土地をつくり、水は田をうるおし、人びとの暮らしを支えました。けれどもその一方で、増水すれば堤を越え、それが破れれば一気に水が低地へ流れ込む恐ろしい川でもありました。恵みを与える川でありながら、暮らしを揺るがす川でもあったからこそ、この土地では長い堤を築き、村を守る備えを整える必要があったのでしょう。六条堤は、まさにそうした地理的環境に向き合って築かれたものだったのです。
六条堤の築造に関わった伊賀坊了誓は、玉津地域に所在する専念寺第三世住職とされ、地域の治水に力を尽くした人物として記憶されています。矢島松斎については、詳しい伝記まではたどりにくいものの、少なくともこの堤の築造者として名が残されています(写真2)。堤の話が単なる土木の記録で終わらず、地域の人びとの働きとして伝わっていることに、この場所のおもしろさがあります。六条堤は、昭和40年代にはじまるこの地域の圃場整備事業によって消失し、残念ながらその面影さえとどめていませんが、この地域の穏やかな田園風景を歩むことで、この土地で水と向き合った人びとの姿を思い浮かべることができるのではないでしょうか。

そして、水との闘いの歴史を実感へと引き寄せてくれるのが、この地域にいまなお残る水止め石です(写真3)。水止め石は、道の両側に設けられ、洪水の際に石の溝へ戸板を差し込み、水の通り道をふさぐための装置でした(写真4)。大きな堤が地域の外側を守る備えなら、水止め石は村の入口で水を食い止める内側の備えです。つまりこの地域では、一本の長い堤を築くだけでなく、破堤や越水が起きたときまで想定して、生活の場に近いところにも工夫を施していたのです。六条堤、水止め石、そして築いた人びとの記憶をあわせて見ていくと、これらは単なる災害の記録ではなく、水とともに暮らすために積み重ねられた地域の知恵として浮かび上がってきます。


この地域の歴史は、ただ洪水を防ぐための工夫としてだけではなく、水のある土地で暮らしを続けるための知恵として見えてきます。堤を築き、備えを残し、その記憶を後世へ伝えてきたからこそ、今の玉津の風景にも、長い時間が感じられるのでしょう。六条堤をたどることは、派手な遺構を見ることではなく、土地の中にしみ込んだ歴史を静かに読み解くことでもあります。目立つ場所ではありませんが、歩いてみると、この地域が水とともに生きてきた重みが、少しずつ見えてきます。
おすすめポイント
【伊賀坊了誓の碑(専念寺)】六条堤の築造者の一人として伝わる伊賀坊了誓を記憶する場所です。堤だけでは見えにくい「築いた人」の存在が感じられます。
【大庄屋諏訪家屋敷】江戸時代に地域の大庄屋を務めた諏訪家の屋敷で、主屋・書院・茶室・土蔵に加え、枯山水式庭園と池泉回遊式庭園が残っています。近世の村を支えた有力家の暮らしぶりや格式を今に伝える場所で、六条堤や水止め石とあわせて見ると、洪水への備えだけでなく、地域を支えた村の運営や人びとの生活まで立体的に感じられます。
参考文献
矢島歴史の会(2020)『守山市 矢島のむかし』
守山市市誌編さん委員会(2001)『守山市誌 地理編』
(調査課 木下義信)